岸は、
「これで党三役は総入れ替えをせねばならないが……」といいはじめた。
「ただし問題は、河野君だ。すんなりと、総務会長の辞任を承知するだろうかね。河野をバックアップして、大野君も騒ぐんじゃあるまいか……」
岸にとって、いちばんの気がかりは、それであった。佐藤は冷然と、いい放った。
「河野君や大野君が、なんといおうと、河野君を総務会長の椅子から、降ろすべきだ。総務会長は、池田派の益谷秀次あたりをすえて、河野派には、政調会長の椅子ぐらい与えればいい」
佐藤と河野とは、この二年間、官僚と党人という形でにらみ合ったまま、融和することがなかった。佐藤と大野とも、吉田時代以来からの対立が続いている。
「だいたい、旧自由党系の石井君、池田君が、こんどのような行動に出るのは、河野、大野といった連中が、主流派のなかにいるからだ。それが、不満だからだ。このさい、河野、大野を、主流派から締め出したほうがいい。両派を追っ払って、かわりに池田、石井派を主流派に組み入れるべきだ。石井君は自由党以来の関係だし、池田君は官界の旧友……おれも兄貴も、肚を割って話ができる」

石井、池田を主流派に抱きこむことについては、岸にも異存はない。ただ、この時点ではまだ、大野、河野を主流派体制から、追放する気にはなれなかった。
「大野、河野もだ、主流派として、こちらに協力させねばなるまい。それでないと、やはり党は不安定だ。その線で、新三役を考えよう」と、岸は思案しながらそういった。

岸信介は、明けて34年への年初を、はじめて熱海の別荘で過ごした。別荘は、新築してまだ日が浅く、竣工早々のときであった。「別荘びらき」ということで、岸が大野伴睦と、河野一郎とを、この別荘に招いたのは1月5日である。
「川島君も、人事刷新のたてまえから、すでに辞意を表明してきた。このさい、党人事を一新したいんだが……」と、岸はそういう表現で、河野に総務会長の辞任を求めた。
もちろん河野も、そうなるであろうことは、当然のことと覚悟はしていた。それにしても、河野の強い気性からすれば、
― 反主流派に押しまくられて退陣。
ということに、非常な抵抗を覚えないわけにはいかなかった。憤然とした顔つきで、答えた。
「ぼくは、あんたとだ、保守合同についても、さんざん苦労した。

岸総裁の実現にも、一役買った。ようやく岸内閣ができて、この二年間、相当につくしてきたつもりだ。それが、警職法をしくじった。反主流から攻撃された……となって、党内収拾のための犠牲というんでは、面白くない」
「君の気持ちはだ、よくわかっている。が、いま重大時だ。協力をたのむ」
岸は、多少どきまぎした口調になりながらも、そつなく巧みに答えた。
「党役員改選、新人事……といっても、これはだ、今日の事態を収拾する暫定人事だ。いずれまた、本格的なことを考えたい。ということで、協力してもらいたいんだ」
河野は、岸の苦衷を理解しながらも、やはり感情的には処理できないものがあった。
「協力、協力というが、いつまで協力したらいいんだ。つまりだ、君はいつまで総理をやっている気なんだい」
訊きにくいことを、河野は思いきり叩きつけた。岸は、顔をしかめながら、
「日米新安保……それを、なんとか自分の手で通させてもらいたい」と答えた。
その上で、こんどは大野の顔をみた。
「どうか、ぼくの内閣を助けてくれたまえ。ぼくはだ、太く短く生きるつもりだ。そういつまでも、政権に恋々としていようとは思わん。

が、いま、警職法に失敗、反主流派の攻撃で退陣……岸内閣は、なにひとつしなかった、というんでは、世間から笑われる。岸政権の歴史に残る仕事として、安保条約だけはやりとげたい。安保さえおわれば、ぼくはすぐ退陣する。後継者としては、大野君、あんたがいちばんよいと思っている。ぼくは、君をかならず、後継総裁に推すつもりだ……」
「わしゃ、総理大臣になるがらじゃあない。そんな野心もありゃあせん」
しかし、大野も岸の説得で軟化した。河野も、
― いくら頑張ってみたところで、このさいはどうにもならない。
と、その退きどきを心得ていた。
「わかった。承知したよ。新役員人事は君に任せよう」といった。
あたらしい党役員が決まったのは、四日後の1月9日であった。

副総裁― 大野伴睦(大野派)、幹事長― 福田赳夫(岸派)、総務会長― 益谷秀次(池田派)、政調会長― 中村梅吉(河野派)

この人事でクローズアップされてきたのは福田赳夫であった。岸派のなかの戦後派で、岸派勘定奉行として縁の下ではたらいた。福田の力量を知る人たちのあいだでは、「いずれ、幹事長」という声はあった。それが、ようやく実ったのである。

つづいて12日には、三閣僚辞任のあとをうけて、岸は内閣の改造を行なった。
文相― 橋本龍伍(横すべり)
厚相― 坂田道太(石井派)
自治庁長官― 青木正(復任)
経企庁長官― 世耕弘一(石橋派)
科技庁長官― 高碕通産相兼任
いま一人、左藤義詮防衛庁長官が大阪府知事選出馬のため辞任した。岸は石井光次郎に入閣を再三要請したが、防衛というポストにも問題があり、石井はついに入閣を固辞する。石井に対して池田や三木と違った期待を抱いていただけに、これは岸、佐藤を深く失望させた。後任は伊能繁次郎にまわった。

あたらしい体制に、大野も河野もいたく不満であった。
「本当ならばだ、あとの責任は持てんと、しりをまくりたいところだよ」と河野はその派の重政誠之、中曽根康弘、森清、松田竹千代、大石武一たちにいったものである。
この大野、河野にも、こんご協力を得なければ、日米安保改訂をなしとげられないと計算していた岸は、16日の夜、日比谷の帝国ホテルに二人を招いた。
― 二人の協力を、より確実にさせるために、保証人的な人たちも同席させよう。

岸は北海道炭礦汽船社長の萩原吉太郎、大映社長の永田雅一、それに児玉誉士夫を招待した。このなかに、岸側から佐藤栄作が加わった。
岸は、熱海会談のときと同じように、
「こんごとも、岸内閣を助けてもらいたい。安保のあとは退陣して、大野君に政権を渡す……」
とくり返した。
佐藤も、テーブルの上に手をつく恰好で、「ぜひ、よろしく」と、頭をさげた。
頼まれれば嫌といえない大野である。また萩原、永田と、それに児玉が立ち会っているのだ。
「わしは、岸君には、別になんということはない。佐藤君、君さえ、言動を慎んでくれれば、協力は惜しまん」と答えた。
大野は、冷たく秀才ぶった佐藤の官僚的な態度が嫌いであった。
「あの気どった面つきをみると、虫酸が走る」とまでいっていた。それを知っている佐藤も、外で大野を、
「知性のない浪花節……」と批評した。これがまた、大野の耳に入るものだから、大野はこの席で、「言動を慎め」といったのだ。

そんなことを超えてこの席では岸、佐藤、大野、河野の連携が約束をされた。
「こうなると、岸君のつぎは大野君、そのあとが河野君、つぎが佐藤君……ということになる」
と、永田がいった。
「そうだな」と岸が答えた。
調子に乗った永田が、
「しかし、政治家諸公は、ときどき、口にしたことを実行しない癖がある。ひとつ誓約書を作っておいたら、どんなものかね」
といった。
岸は面白くない表情をみせながらも、
「そうしよう」と相づちを打った。
秘書に、筆と硯、巻紙を運ばせると、達筆でこうしたためた。
「昭和34年1月16日、萩原、永田、児玉三君立会の下に於て、申合せたる件については協力一致、実現を期すること、右、誓約する」
それに、岸、大野、河野、佐藤の順で署名した。この一札は、萩原が預かることになった。岸がそこまでしたのは、
― いかなる方法をとろうとも、新日米安保条約だけは仕上げたい。
という強烈な執念があったからだ。あとになって、この種の文書がなんらかのな禍根になり、好ましくない反応を残すかも知れないという理性の判断よりも、安保に賭けた執念がはるかにつよかったせいであった。

16日の会合に、佐藤は遅れて出席している。
「席に着いたら、いきなりお前も署名しろといわれた。見ると伴ちゃんが後継者になるという話だ。署名一つで岸を助けるというなら有難いと思った」後年佐藤は語っている。佐藤にしてみれば、河野がいい出した話なので、河野の顔を立てればいいと考えたろうし、三人の立会人が全員河野の親友たちなので、河野は三人のうちの誰かの知恵に乗って、大野の全面協力という貸しを岸に対して作っておこうという肚だと読んでいた。大野自身は、やはり本人の回想録で、
「岸、佐藤兄弟が、岸内閣を救ってくれ、そうしたら安保改定直後に退陣して必ず大野さんに政権を渡すとくり返し、佐藤君までが手をついて頼む。岸君は口約束でなく誓約書を書こうといって、自ら筆をとって文書をしたためた」と述べている。真相の一部はヤブの中だが、岸は主流四派の結束強化を軸に、まず総裁公選の一月繰上げ実施へ動き出す。

注目の総裁公選は、1月24日におこなわれた。池田、三木、石井、石橋の反主流四派は、松村謙三を対立候補とした。岸は、岸、佐藤、大野、河野の四派を中心として320票をとり、松村は166票をとる。反主流派はこれをいちおうの戦果とみて、一時反岸闘争を収束することにした。池田の周辺では、私もふくめて、もっと押せばいいのにと考えたものもあったが、池田は、これ以上深追いする余力もないし、また、すれば保守党全体をいたずらに混乱させるだけだと判断した。きたるべき参議院選挙にそなえて、池田は翌2月には広島の選挙区へ帰った。

4月22日、十河信二国鉄総裁更迭に佐藤蔵相が横槍を入れたことに腹を立て、永野護運輸相が辞任。岸は後任に、のちに参院のドンとなる重宗雄三を起用した。

池田の選挙区まわりには、多くの新聞記者が東京からついていった。反主流派運動の余燼がなおくすぶりつづけており、その中心である池田が、こんどはなにをやるのだろうという期待からである。
池田の月給二倍論の第一声は、このときの広島における記者会見においてであった。

池田は、参議院選挙で同志を応援して、各地を遊説し、この政策を説いてまわった。演説しているあいだに自分自身を確かめ、国民の反応を感じながら、自信をつけていった。辻々で演説した。
「お仕事中のみなさん。お忙しいでしょうが、私の話をちょっと聞いてください。みなさんの月給が二倍になるという話をいたします。われわれは灰のなかから立ちあがりました。苦しかったあのときの状況を思いだしてください。配給で行列いたしました。私どもはそれをやめました。まえにくらべて、どんなによくなったことでしょうか。いまの経済はよくないと言う人がありますが、これからはもっとよくなります。みなさん自身の働きによって……。私がやるんじゃありません。みなさんがやるんですよ。私どもも、みなさんと一緒に頑張ります。私の気持ちをよく知っている候補者はこの人です。どうか私の考えに賛成の方は、この人に投票してください」
私はこの遊説に同行しながら、池田がいつのまにこんなアジテーターの才能を身につけたのかと、目を見はる思いであった。この参議院選挙における池田の演説は、のこらず岸に報告されていた。