038 それはちょうど、対日平和条約の批准を終わって二か月あと、その昭和26年の12月25日、クリスマスの日にあたっていた。午前8時という早い時間に、吉田は増田甲子七幹事長を外相官邸に呼びつけた。息せき切るように駆けつけてきた増田の顔をみるなり、吉田はこういった。 「内閣改造だ……。いま、すぐに……だ」 増田は、一瞬、その長身を立ちすくませた。 「リストは、もうできている」と、吉田はデスクの上の紙片を、増田に手渡した。 「このとおりにしたまえ」増田にうむもいわせなかった。 「はっ」増田は、そのリストに目をとおした。 首相・外相― 吉田茂、法務総裁― 木村篤太郎、蔵相― 池田勇人(留任)、文相― 天野貞祐(留任)、厚相― 橋本龍伍(留任)、農相― 広川弘禅、通産相― 高橋龍太郎(留任)、運輸相― 村上義一、郵政電通相― 佐藤栄作(留任)、労相― 吉武恵市、建設相― 野田卯一(留任)、経本長官― 周東英雄(留任)、国務相(地方自治)― 岡野清豪、国務相(防衛問題担当)― 岡崎勝男、国務相― 山崎猛、国務相(警察予備隊担当)― 大橋武夫、官房長官― 保利茂 幹事長―増田甲子七(留任) 戸川猪佐武2017/12/18 21:002
871 周東英雄(1898-81) 戦時中は商工省物価局長官、帝国油糧統制且ミ長などを歴任。 1946年、第一次吉田内閣では林書記官長の下で副書記官長(48)を務め、八面六臂の活躍で吉田の信用を得た。 1947年、衆議院議員(49) 1948年、第二次吉田内閣では農林大臣(50) 1950年、第三次吉田内閣では国務大臣・経済安定本部総務長官・中央経済調査庁長官・物価庁長官を3期(52)>>38 兼賠償庁長官 1951年、兼建設大臣、兼北海道開発庁長官 1952年、国務大臣・経済審議庁長官(54) 1960年、浅沼社会党書記長刺殺事件で引責辞任した山崎巌の後を受け、国家公安委員会委員長・自治大臣に就任(62) 1960年、農林大臣(62) 1964年、自民党政調会長(66) 匿名さん2022/08/04 12:14
872 大橋武夫(1904-81) 妻の父は浜口雄幸元首相。1949年、戦災復興院次長を経て民自党衆議院議員 1950年、法務総裁2期(45) 1951年、警察予備隊担当国務大臣(47) 警察予備隊令(設置)第二條 総理府の機関として警察予備隊を置く。 (任務)第三條 警察予備隊は、治安維持のため特別の必要がある場合において、内閣総理大臣の命を受け行動するものとする。 (組織)第五條 警察予備隊に、本部及び部隊その他所要の機関を置く。 【増原惠吉本部長官、林敬三総隊総監】 (内閣総理大臣の権限の代行)第九條 内閣総理大臣は、特に必要があると認める場合においては、この政令に基きその権限に属する事務を、他の国務大臣に行わせることができる。>>38 1962年、労働大臣(57) 1966年、運輸大臣(62) 匿名さん2022/08/05 03:30