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【ペン専用】超新星★56
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妬み嫉妬叩き合いはほどほどに〜
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佐藤の第二次東南アジア歴訪は10月8日から始められた。今回の訪問国には、南ベトナムも加えられており、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドなど、ベトナムへ出兵している諸国を歴訪するので、社会、共産の野党のほか、全学連などの反対が強かった。反対の理由は、またしても「日本を戦争にまきこむな」であった。佐藤首相が今回ベトナムへ行くのは、この後11月訪米の際、アメリカとベトナム参戦について協議するので、その準備としてベトナム政府と打合せをするのだ、といったおよそ考えられもしないことを反対闘争の理由としたのである。今回は社会党が年来叫び続けて来た「青年よ銃をとるな」のベトナム版であり、この次は沖縄版となる。社会党や共産党は、自民党政府は必ず徴兵制を施行して、日本の軍隊をアメリカの手先として世界中どこかの戦場に送りこむことを信じているようであった。ソ連がキューバの軍隊を何処へでも送りこんでいる前例があるので「佐藤をベトナムにやれば参戦の危険がある」と思うのだろうか。
こうした妄想にとりつかれた全学連や革新グループは、前夜から総決起集会を開き、実力で首相の出発を阻止する動きをみせた。
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>>971 やだ!わたし教えたことになるのか。親切なことしちゃったwwww
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佐藤の私邸や羽田空港は厳重な警戒体制がしかれていた。8日朝、首相一行は白バイやパトカーに囲まれて、世田谷の私邸を出発する。途中、警戒の警官隊と学生との小ぜり合いを眼にしたが、進行の障害にはならなかった。一行の後方には、万一の場合を懸念して、機動隊員を乗せたバスが一台追っていた。
佐藤が羽田空港の周辺でデモ隊と警官隊が衝突して流血の騒ぎとなったことを木村官房長官の連絡で知ったのは、ジャカルタのクマヨラン飛行場に着いた後だった(第一次羽田事件)。
『我等の出発後警官隊と学生の衝突ありて学生一名死亡、両者負傷五百名をこす一大暴動行為発生との事。勿論詳報なき為批評すべき材料に乏しいが、最近の行きすぎた学生運動から見て想像のつく事故、木村君には平静にしかめ全体をつかまえて断乎たる処置をとるべき事、どんな理由あるとも暴力行為は許せぬと指示する』
暴動自体は、全国から集まった左翼学生およそ三千人が警護の警察官へ投石したり、角材で殴りかかったり、警備車に放火したりしたことから始められた。警官や学生に合わせて数百人の怪我人が出た。さらに警官隊から給水車を奪った学生が仲間の京大生をひき殺すという事件も発生した。
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佐藤の私邸や羽田空港は厳重な警戒体制がしかれていた。8日朝、首相一行は白バイやパトカーに囲まれて、世田谷の私邸を出発する。途中、警戒の警官隊と学生との小ぜり合いを眼にしたが、進行の障害にはならなかった。一行の後方には、万一の場合を懸念して、機動隊員を乗せたバスが一台追っていた。
佐藤が羽田空港の周辺でデモ隊と警官隊が衝突して流血の騒ぎとなったことを木村官房長官の連絡で知ったのは、ジャカルタのクマヨラン飛行場に着いた後だった(第一次羽田事件)。
『我等の出発後警官隊と学生の衝突ありて学生一名死亡、両者負傷五百名をこす一大暴動行為発生との事。勿論詳報なき為批評すべき材料に乏しいが、最近の行きすぎた学生運動から見て想像のつく事故、木村君には平静にしかめ全体をつかまえて断乎たる処置をとるべき事、どんな理由あるとも暴力行為は許せぬと指示する』
暴動自体は、全国から集まった左翼学生およそ三千人が警護の警察官へ投石したり、角材で殴りかかったり、警備車に放火したりしたことから始められた。警官や学生に合わせて数百人の怪我人が出た。さらに警官隊から給水車を奪った学生が仲間の京大生をひき殺すという事件も発生した。
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警備車七台も放火炎上した。
デモ隊と警官隊の衝突で死者が出たのは60年安保以来であった。当時、岸内閣が政治生命をかけて改定した日米安全保障条約は、その後も引き続いて日本国民の大多数に支持されているし、今回の佐藤首相の東南アジア訪問にしても、ベトナム参戦など初めから夢想もしゆなかったし、あり得ない話であることは まともな良識人なら誰でも判断する事柄である。それを「戦争に向けて突走る佐藤をベトナムにやるな」と学生たちを扇動して暴行に走らせ、警官にも学生にも怪我人や死人さえも出した背後の指導者は、何をねらい何を意図したのだろう。
さて、羽田を出発して、まだ流血のデモ騒ぎを知らない佐藤は、機中でも上機嫌だった。日本航空がサービスに出すハッピを着て、記者たちと冗談を言い合っていた。飛行機がマニラの上空を過ぎ、ボルネオの西端をかすめるころ、インドネシア空軍のミグ戦闘機四機が出迎えに現われ、空港まで護衛してくれた。
空港にはスハルト大統領代行をはじめ、スハルトの同志ナスチオン暫定国民協議会議長のほか、マリク外相など政府首脳が顔をそろえ、盛大な歓迎式典が行われた。
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警備車七台も放火炎上した。
デモ隊と警官隊の衝突で死者が出たのは60年安保以来であった。当時、岸内閣が政治生命をかけて改定した日米安全保障条約は、その後も引き続いて日本国民の大多数に支持されているし、今回の佐藤首相の東南アジア訪問にしても、ベトナム参戦など初めから夢想もしゆなかったし、あり得ない話であることは まともな良識人なら誰でも判断する事柄である。それを「戦争に向けて突走る佐藤をベトナムにやるな」と学生たちを扇動して暴行に走らせ、警官にも学生にも怪我人や死人さえも出した背後の指導者は、何をねらい何を意図したのだろう。
さて、羽田を出発して、まだ流血のデモ騒ぎを知らない佐藤は、機中でも上機嫌だった。日本航空がサービスに出すハッピを着て、記者たちと冗談を言い合っていた。飛行機がマニラの上空を過ぎ、ボルネオの西端をかすめるころ、インドネシア空軍のミグ戦闘機四機が出迎えに現われ、空港まで護衛してくれた。
空港にはスハルト大統領代行をはじめ、スハルトの同志ナスチオン暫定国民協議会議長のほか、マリク外相など政府首脳が顔をそろえ、盛大な歓迎式典が行われた。
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その日の夕方には羽田デモ事件の詳細について報告があり、事件は学生側の行き過ぎから発生したもので死亡事件についても警官側に全く責任がないことがわかり、佐藤もひと安心する。
スハルト大統領代行との会談は、翌9日ムルデカ宮殿で行われた。佐藤はこの朝、建国勇士の墓地の参拝をすませていた。会談は予定をはるかにオーバーして二時間四十分にも及んだ。インドネシア側は、内政、外交について詳細に説明し、日本に経済援助一億jの要請もしている。外交問題ではとくに中共が中心議題となった。インドネシアでは中共の支援を受けたとされる共産党のクーデターが失敗し、これを押えた軍部が実権を握りスカルノが引退、スハルト新政府は発足したばかりであった。新政権はスカルノ時代に較べて右寄りの政策を進め、中共との関係は良くなかった。石油は出ていたがまだ価格が安く、しかも外国資本にその利益を持ち帰られて財政は苦しい。日本から援助を与えるにしても他の債権国の承認が必要だった。
夜は大統領官邸で晩餐会であった。インドネシア風の食事はなじみのないものだったが、余興の踊りはすばらしかった。官邸には軍人宰相らしい清潔感があった。
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その日の夕方には羽田デモ事件の詳細について報告があり、事件は学生側の行き過ぎから発生したもので死亡事件についても警官側に全く責任がないことがわかり、佐藤もひと安心する。
スハルト大統領代行との会談は、翌9日ムルデカ宮殿で行われた。佐藤はこの朝、建国勇士の墓地の参拝をすませていた。会談は予定をはるかにオーバーして二時間四十分にも及んだ。インドネシア側は、内政、外交について詳細に説明し、日本に経済援助一億jの要請もしている。外交問題ではとくに中共が中心議題となった。インドネシアでは中共の支援を受けたとされる共産党のクーデターが失敗し、これを押えた軍部が実権を握りスカルノが引退、スハルト新政府は発足したばかりであった。新政権はスカルノ時代に較べて右寄りの政策を進め、中共との関係は良くなかった。石油は出ていたがまだ価格が安く、しかも外国資本にその利益を持ち帰られて財政は苦しい。日本から援助を与えるにしても他の債権国の承認が必要だった。
夜は大統領官邸で晩餐会であった。インドネシア風の食事はなじみのないものだったが、余興の踊りはすばらしかった。官邸には軍人宰相らしい清潔感があった。
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次の日、佐藤はスハルトの私邸を訪問する。スハルトの庶民的な生活ぶりに好感を持つ。子供たちへは贈物をふんだんに持っていった。人形から汽車、自転車まで持ちこんだので、子供たちは大喜びする。寛子夫人はスハルト夫人とすっかり気が合い、この日は夫人得意の「お料理教室」で、すき焼の作り方を伝授する。
佐藤とスハルトはここでもしばらく話し合う。佐藤から「最近の北京には手を焼くことが多いが、お互いドアを閉めないでおこう。孤立化はさせない方がいい」といった話をする。
気がかりだった羽田のデモ事件は、各紙が筆をそろえて学生の行動を非難したので、佐藤も気をよくする。社会党は学生支持の声明を出したので具合が悪かった。
佐藤の三日間のインドネシア滞在は、スハルト政権最初の国賓でもあり、また日本側の協力に期待することも大きかったので熱烈歓迎に終始した。佐藤のインドネシア訪問は両国首脳の厚い友情をつくり上げる。この後、スハルトは一貫して佐藤に兄事する態度で接することになる。佐藤も同行の記者団も、この国での厚遇に満足したが、余りにも熱狂的な歓送迎に、この国の国民性に不安も感じた。
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