047 ― 五年前の22年。第一次吉田内閣組閣のとき、反対する総務会を、三木がまとめた……林譲治から、その経緯を聞いている。その礼は、返さねばならんだろう。 吉田は、広川にこう指示した。 「除名は……石橋、河野二人だけでいい」 広川は、不服そうな顔をした。鳩山派の総参謀三木を斬らなければ、効果は半減してしまうからだった。 ― なぜ、元凶の三木を、斬らないのか……。無言のまま、眼で、松野に問いかけた。松野はしかし、吉田の意のあるところを、いち早く察していた。 「石橋、河野君二人でいい。総理には、別のお考えがある」 極秘の選挙準備は、法手続を保利、党体制を広川、資金を池田蔵相と佐藤郵政相と、分担をきめてすすめることになった。 準備がととのったところで、吉田が抜き打ち解散を断行したのは、臨時国会を召集した翌日― 8月27日であった。 このときの総選挙は、吉田派が「自衛力漸増」を掲げたのに対して、鳩山派はステーション・ホテルに別に本部を設け、石橋、河野が采配をふるい、「政権授受」と「再軍備」を叫んで、別個の政党であるかのように闘った。 戸川猪佐武2017/12/20 21:001
869 林譲治(1889-1960) 1946年、内閣書記官長(57) >>47 1948年、副総理兼 厚生大臣2期(59) 1950年、副総理(61) 1951年、衆議院議長(62) 1952年、自由党幹事長(63) 《福永幹事長事件》 匿名さん2022/08/03 00:15