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こんなことで総務会も開会の時とは打って変わって、反主流派が松野たち執行部にいなされる形で幕をとじることになった。すでにこの総務会の空気の中に象徴的に示されたように、時間が経過するにつれて殺気だったものが、おいおいに消失し始めていた。議員総会の興奮は、徐々に空気が洩れる気球のように萎んでいった。
午後5時きっかりに首相官邸の玄関に車を乗りつけた福田、大平とも、そこに殺到してきた記者団を振り切って、正面の階段を二階へ駆け登った。
総理大臣室に入ってきた二人に、三木は無言のまま手で椅子をすすめ、いきなりこういった。
「で、ご両所とも辞表を持ってきたんではないだろうね」
この予想外の発言に二人はぎくりとなった。この三木の台詞は、取り方によっては
ーお二人とも辞表を出すのなら出しても結構。僕は一歩も退かんよ。
という意味のように受け取れた。いってみれば、これは一種のブラフだった。今の段階では、まだ福田にしても大平にしても、甘い観測の上に立っていた。
ー自分たちが強く押せば、三木はへなへなと膝を屈して退陣する。
ひたすら それを望んでいた。
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三木が分裂を賭して猛然と反噬に出て、それゆえに二人が辞表を叩きつけるという場面の到来は想像のほかであった。今朝、閣議前に反主流派の15閣僚が集まった時にも、暗黙のうちには
ー最悪の場合は、そろって辞表を提出する。
という思いはあったものの、誰もそれを口にする者はなかった。それは辞表を叩きつけるような場面がくる前に、三木が折れると読んでいたからだ。それが希望的観測で実は甘かったことを、たったいま三木の言葉で二人は思い知らされた。凝然とならないわけにはいかなかった。
福田はその内心を押し隠すかのように、背を伸ばして姿勢を正した。
「総理も先ほどの議員総会の件は、すでに耳にしておられると思うが……」
「聞いている」と三木はうそぶくようにいった。それに被せるように福田は一気に喋った。
「あんなに多数……三分の二以上が実際に集まったんで、僕も驚いた。執行部あたりでは、あの議員総会が無効だというような議論もあるようだが、この際そのような形式、手続き論は問題ではない。現実に三分の二以上が集まったことに意味がある。その席で臨時国会前に党一新を期するということが決議された。
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これは形式や手続きとは別に、あくまで厳然たる事実として受けとめなければならない。党内の圧倒的多数が党一新を決議した以上、総理として進退を考えるべき時にきたと思うが……」
福田はその体軀に似て、迫力が表に出ない。その福田にしては、この台詞が三木に対する精一杯の攻撃であった。大平は黙っていた。三木を相手にいくら騒いでみたところで、巧みにかわされてしまって手応えがないというあきらめを抱いていた。
「この三者会談の後、この結果を以て再び議員総会が開かれる予定だ」
これは、この席で辞意を表明することを三木に求めるものであった。それでないと再開された議員総会で、三木総裁の不信任あるいは解任が決議されることを示しての攻勢であった。三木はありありと、その面上に困惑の色を見せた。福田も大平も
ーこれで三木は参ったろう……。
小鼻をうごめかすといった表情で三木を凝視した。だが三木はその態度とはうらはらに
「数の圧力……というわけかね。そういうことは感心できんよ」
と応じた。そのあと落ち着いた口調でこんな台詞を吐いた。
「数……ということになると、参議院ではお互いが苦労しとるね」
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この意味は福田、大平にもすぐ理解できた。これは今朝の閣議の後、中曽根派の稲葉法相が福田に向かって吐いた言葉と同じことである。
ーもし数で勝負ということになれば、君たちが政権をとった後、われわれ三木派は少なくとも反主流派になる。あるいは党を割るかも知れない。三木派10名が福田、大平政権に反旗を翻したら、参議院では与野党差が逆転し野党が5名多くなる。予算も法案も何一つ通らないことになる。数で勝負というなら、わが方にだって考えがある。
ということで、三木が反撃に出たのである。こうなると福田、大平とも議員総会の数の圧力だけでは三木を押せない。二人とも心理的に気圧された。態勢の立て直しを迫られることになって口をつぐんだ。その間に三木は、二人を自分のペースに巻き込んで喋り始めた。
「僕の考えていることは、今のところあくまで国務優先ということだ。一日も早く臨時国会を開いて喫緊の財政特例法その他を成立させることが、内閣としても党としても欠くべからざる要務になっている。これの成立が遅延すればするほど経済や社会、国民生活に悪い結果が現れてくる。従って急がなければならない。
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それをも放置しておいて党一新を優先させるという感覚は、国民には理解できないのではないかね。端的にいって国民は政権争奪のための派閥抗争としか受けとめないのではないか。ますます内閣も党も国民の批判の前に曝される。私はそれを内閣や党のために一番恐れているのだ。この辺のことは、とうにお解りいただいていると思うんだがね……」
「しかしその重要な財特法その他も、今の体制のままでは とても成立するものではない」
「そこのところが論理的には奇妙なんだよ」と三木は眼鏡の奥の眼をさらに細めていった。
「つまり君たちのいいたいところは、僕の体制のままでは福田派も大平派も協力できないというのだろう。しかし考えてもくれたまえ。福田君は副総理、大平君は蔵相として現にその椅子にいるんではないかね。僕の体制の下では法案成立に協力できないということは 副総理、蔵相としての責任からいっても、いたって無責任というほかはないじゃないか」
名指しされて大平が初めて口を開いた。
「そう仰有られれば、全くの平行線だ。これ以上話し合っても意味はない」
大平は立ち上がろうとした。すでに聞き飽きた三木の理論である。
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同じやり取りをいくらくり返しても結論は出ないという思いと、三木と顔を合わせていることの不快感とで大平は席を立とうとしたのである。それを三木は例のスキンシップで、大平の膝に手を当てて押しとどめた。
「大平君。いま席を立たれたんでは身も蓋もない。とことんまで徹底してだね、話し合うことが必要だ。僕もいいたいことをいうから、君たちにもいいたいことをいってもらう。それがこの三者会談の主旨じゃあないかね」
そういわれてみれば、その通りである。大平は渋々と腰を下ろした。三木は再び口を開いた。
「それに今責任ということをいったが、三木内閣は曲がりなりにも福田君が副総理、大平君が蔵相として、僕と三人でやってきた。ところが今 僕に向かって、ロッキード問題に区切りをつけるために、あるいは挙党体制を作るために、責任を取って退陣をせよという。しかしそうした責任論からいえば、僕にだけ責任があって 君たち二人には全く責任がないというのは奇妙じゃないかね。君たち二人がよくて、僕一人だけが悪いというのはおかしい。もしそうだとするならば、僕のどこが悪いのかね」
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確かに内閣、閣僚の責任論からすれば、三木の所説の通りである。これについては福田、大平も一言もない。
「しかし実際問題として……」と福田は話を元に戻した。
「とにかく党内の情勢は臨時国会前の党一新を望んでいる。この事実は考えなければならんでしょう」
「それはわかるがね。党一新ができなければ臨時国会を開かない……というんでは、それだけ臨時国会の召集が遅れる。懸案の法案の成立も滞る。それを僕は憂慮しているんだ。だから臨時国会を開く、国務優先というわけだよ。この臨時国会を開いてからでも法案審議と並行して党一新、ひいては政権の問題は話し合っていけるんではないかね。並行してできないという理屈は通らない」
「しかし……」
大平が発言しようとするのを三木はまあまあというように手で抑えた。
「仮に一歩を譲ってだね、臨時国会前に党を一新するということなんだが、この党一新ということは君たちはあくまで僕の退陣というようにいっているが、必ずしもそうでなくても一新は可能なんではないかね。早い話、内閣の改造、党役員の改選などによる一新という方法もあるよ」
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「だがそれでは三木総理としての責任はどういうことになりますか」
福田が三白眼をすえ、攻撃的な口調でそういった。三木は
「僕の総理としての責任……ということになれば、さっきいったように、それは君たち二人にも背負ってもらわなければならない性格のものだと思うがね」
そういいながら福田と大平とを交互に見やった。三木の真意がどこにあるかは福田、大平にもすぐ読みとれた。つまり三木は
ーもし僕が責任をとって総理総裁のポストを去るとしたならば、三木内閣において同じ責任を担っていた君たちご両人も総理総裁になるべきではない。
というのが三木の真意であった。
こうなると福田、大平も 正面切って論じては分が悪かった。福田が出直し改革といい、大平がみそぎ改革というのも、三木を追い落とした後、福田か大平か、いずれかが政権を担当するのが目的だった。三木をおろしたのはいいが、福田も大平も後継の総理総裁を遠慮させられるー ということになれば、二人にとって三木おろしは まるきり意味がないものに終わる。
事実、三木派の中には
ーおろされるなら福田、大平と刺し違えよ。
という声も強い。
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それを見越して中堅、若手の中には
ー福田、大平は自分たちが跡目を狙っているから三木おろしができないのだ。その野心を捨てて「おれたちも総理総裁にはならないから君もおりろ」といえば三木もおりるのではないか。
ーこのさい自民党の改革、近代化のためには跡目は中曽根康弘でも小坂徳三郎、宮沢喜一、あるいはもっと若返らせて竹下登、安倍晋太郎のほうがいい。
とさえいう者も出てきている。
それだけに三木の口から共同責任論を持ち出されるのは福田、大平にとって最も痛いところであった。三木の話は蜿蜒と続いた。
「さらに総理の責任……ということになれば、僕はかねてから国民に対してロッキード事件の解明、清算ということを約束してきている。これを果たすことが総理としての責任だと信じている。ロッキード事件の解明にはまだ時間がかかるとしても、そのあと総選挙によって民意を問わない限りロッキード問題の清算はつかない。この民意を問うための総選挙を前にして、党の改革を行わなければならない。これが自分の総理大臣としての責任であると考えている。それはまた議会生活四十年にわたる自分の最後の使命だとも信じている」
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そういって三木は福田と大平の顔に視線を向けたが、大平は多少うんざりした表情だった。
ー議会生活四十年。
という台詞が飛び出すと、どうしても大久保彦左衛門の「鳶巣文殊山の初陣」の話ー 彦左衛門はことあるごとにくり返しくり返し 若い旗本に向かってこの初陣の手柄話をするものだから、しまいにはこの話が出るたびに若い旗本が逃げ出すという講談を、大平は思い出さないわけにはいかない。
とにかくそのような議論が二時間ほど続く間に、大平は二度ほど席を立とうとした。それを三木が大平の膝を叩いたり手を握ったりして押しとどめた。
7時近い時間がおとずれた時に、三木は時計を見ながらこういった。
「これからNHKの『総理と語る』の録画撮りがあるんでね。残念だが今日はここまでにしたい。しかし明日でも明後日でも、また話し合いの時間を持ちたいと思っている。従ってこの三者会談は 決裂ということにはしたくない」
「だが いつまでたっても平行線では……」
そう大平が不満をぶつけた。
それを押しとどめる手つきで三木はいった。
「話し合いが決裂……ということになってしまえば、自民党はどうなるのかね。
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