国会の幕切れを五日後に控え、私は宏池会で大平蔵相と話していた。
「全法案が流れてしまう最悪の事態を考えておくべきだ」
私はそう大平にいった。三木内閣の国会対策は三木派と中曽根派が中核で、野党との折衝は必ずしもうまくはないだろうと思えたからだ。大平蔵相は酒、煙草の値上げ法案を抱えていた。この法案が通らないと財源に穴があいてしまう。三木内閣は政治資金規正法により多くの関心をもち、与野党間では選挙法改正法案(定数増加)に関心があった。ここから各法案の重要度が生まれてくる。
7月1日、酒、煙草値上げ法案が参院大蔵委員会で自民党の単独審議で可決した。あとは参院本会議での成立を待つだけだ。会期末には参院には法案が次々と送られて成立を待つ。与野党間で ある種の取引が成立し、その基準に応じて法案が成立して行く。
いよいよ最終日の7月4日となった。参院の審議は一進一退で時間は刻々過ぎてゆく。まず選挙法二法案が通った。次いで政治資金規正法が成立した。この頃もう審議時間はほとんど残っていなかった。
檜垣徳太郎大蔵委員長が宏池会にとんできて大平と密談し始める。値上げ法案の成立が怪しくなったのだ。

河野謙三参院議長との連絡役を自任する栗原祐幸までが 今までの楽観論をすっかり返上して「むずかしい、こうなったら議長職権で押し上げるしかない」といいだした。大平は私の顔を見ると
「神様の話をしてくれないか」
といって私を別室によびこんだ。大平は完全に動揺していた。
「大平さん、あなたは現象を見て肚をきめようとしている。本当は肚をきめて現象を見てゆくべきなのです。あなたの肚が最悪の事態を考えて、そこでビクともしないものになっているかどうかです。この肚がきまっていたら、あっそうか、そうだったかと成行を見ておりさえすればいい」
「酒、煙草値上げ法案が通ればこれからの大平蔵相にとって少し荷が軽くなったというだけのことだ。まだまだ郵便法案(郵政省所管の葉書値上げ法案)が残っています。だからこれら成立しなかった二法案など、予算関連法案を提出する臨時国会を召集すればいいではないですか。いま田中角栄があなたの立場でも臨時国会を要求しますよ」
「大平さん、あなたは値上げ法案を捨ててしまえばいいのです。捨てたらその後 一番いい判断がでてきます。その時、本当に値上げ法案を生かす道がついてきます」

「どう記者団に話せばいいか」
大平は私にこう聞いた。
「この値上げ法案の金で福祉がまかなえるのだ。私がいい生活をするために酒や煙草の値上げをするのではない、といったら」
私はそういったが大平は納得しなかった。大平は蔵相としての不手際を責められることに対し、どう答えるかを私に求めていたのだ。
法案は流産し国会は終わった。その上、中曽根執行部は恒例の両院議員総会も開かなかった。「明日は開く」「明後日開く」といいつつ、その週いっぱい引き伸ばし、7月末、三木首相の渡米歓送会に切りかえて “お茶をにごす” ということを聞いた。私はげっそりして「自民党は責任政党ではなくなった」と思った。
三木首相は外交や内政は判る。だが経済については全く勘が働かない。政治家にはこうした盲点があるものだ。勘は経済の知識があるなしにかかわらない。
大平に経済の勘はある。だが今度は妙にこれが働いてこない。これは明らかに何かにひっかかっているからだ。
田中内閣時代の大平にはまだこれがあった。あの頃は「田中政権はおれがつくった」という張りのようなものがあった。いまはそれがないからだろうか。

石油ショック後二年近くなるのだが、経済界はいまだに不況の中で悪戦苦闘していた。こういう時にどういう政治を財界は願っているのか。私は日経連の桜田を訪ねて感触を聞いてみることにした。
7月18日、日清紡の別館で会った。
「大平の財界における評判はどうですか」
「弱い、煮えきらない、これというものがない、だから情勢に流されている。結局、自主性のない待ちの政治家だという風評だ。一言でいえば総理の器ではない、ということだ。この噂は広がりつつある」
桜田はこういいつつも
「だが 私はまだまだ大平は変わると思っている」
と話して吉田茂や池田勇人、佐藤栄作の人物論を述べ始めた。
「吉田さんは初め大したものじゃなかった。『鳩山さんが金を作ってくれる』と宮嶋清次郎に真顔で話して、宮嶋から笑われているほどだった。 “まだまだ外交官だ” というのだ。その吉田がこの後 変わるのだ。Ｙ項パージは吉田パージということで相当なものだった。総司令部との外交能力は抜群だった」
「池田もつまらぬ男だった。通産相の頃の池田は大したことはないと私も思った。蔵相としてはモノは知っているなと思い、その知識に感心したことはある」

「総理になって池田は変わった。総理になってあれほど変わった人はなかった。自分は日本でただ一人の人物だ、そのおれがしっかりしなければ、と思って精進した。実直だった。池田総理は相当のものだった。佐藤はちっとも変わらずつまらぬ総理で終わった」
「おれのところには色々のことをいってくる奴がある。大平と福田との間で順序をつけようというのだ。吉田さんの時代ならやれたが、今はとてもできない。そんなことをやってもうまくいかんだろう」
「田中角栄は二、三年は出てこれまい。私はまだ大平は変わると見ている。大平は何をやったのか、まだ何もやってはいない。日中航空協定？あれは君、条約違反だよ。この根は深い。賀屋興宣さんなどもこの点はきつい。灘尾もそうだ。だが大平が肚をきめ『こうだから、こうする』と肚を割って話せば財界も動くだろう」
「大平は肚を割って話したことが一度もない。汚いことをぶっつけ合わねば本モノにならない。宏池会の中でも大平から本音を聞いた者は誰もいないのじゃないか。池田さんは娘の結婚式のとき泣き出したからね。もったいないというのだ。大平は誰でも近づくし近づける。だが肚を見せたことがない」

「大平の後は誰か。宮沢と大平が組めば何とかならぬか」
「今は困難ですが、できないことはないでしょう」
私はこの明治生まれの実業家に会って冷水摩擦を受けたような気になり「判りました」といって帰った。問題はやはり大平の脱皮だ。大平がどこまで変わるかだ。世間はこれを見ている。このためにまず私が変わらねばならぬな、と私は密かに思った。
この頃、全く同じようなことを私は鈴木善幸から聞かされることになる。
7月24日、宏池会に行くと鈴木が私にこういった。
「大平が総理になる目はだんだんなくなってきた。今のままなら三木は三年はもつだろう。解散させずに総辞職に追いこみ、椎名暫定で公選をやれぬか」
鈴木は真顔で話しかけた。私は心の中で「なぜ椎名を暫定にしなければならぬのか」と思いつつ「これは田中角栄の案だな」と直感した。「田中角栄は大平には政権を渡すつもりはなく、椎名暫定論になっている」、私がこのことを気付いていなければ、鈴木の考えを私は無邪気に受けいれていたことだろう。私は
「大平が変わらなければ、何をやっても無理じゃないですか」
と答えた。私の本心は桜田の考えるように大平が脱皮することなのだ。

どう脱皮するのか。大平が独自性を確保する、ということだ。「これだけはどうしてもやる、これをやらなければ おれは死んでも死にきれない」という思いに徹し切ることだ。
もっと突っこんでいえば、田中角栄から脱皮することだ。「最後は田中が何とかしてくれるさ、田中とは何度も政権については約束を交わしたからな」という依頼心を捨てることだ。
田中と同じような力を持たずに田中の力を当てにしていては 田中に利用されるだけである。田中よりすぐれた力を確保した時、はじめて田中の力は 大平にとって心の友の力になる、そうではないか。
政治の世界は裸の力が横行する世界だ。だから自分でもどうすることもできない問題が起きる。弟が兄を追い越し、女房が当選して亭主が落選することもある。大平はかつて 田中の兄貴分であった。今は完全に田中が大平の兄貴分だ。なぜそれがわかるのか。鈴木善幸が変わったし、斎藤邦吉が変わったからだ。現にもう鈴木は田中角栄中心に生きて、大平を総理にしようという考え方を知らずに放り出しているではないか。だが私の考えをいま鈴木に話しても無駄だろう。鈴木は田中角栄の考え方に心酔しきっている。

自分の心が大平から離れたことを意識し得ないほど田中寄りになっているではないか。鈴木の考えはそのまま田中の考えとみて大過はない。

7月30日の朝、私は大平と会った。大平は
「田中角栄は急いでいる。二度もおれのところへ電話をよこしてきた。こんなことは珍しいことだ。田中は三木を倒すつもりだ。おれに補正予算は早く出すな、といってきた」
と私に話した。この田中の大平への電話が 宏池会で鈴木が私に椎名暫定をもちかけたことと深いつながりがあることは、はっきりしていた。
だが、なぜ「補正予算提出を急ぐな」というのか。現在の不況をもっと深刻化させ、三木内閣を政策的に行き詰まらせるところへ追いこもうというのか。そのあと椎名暫定内閣でやれるというのだろうか。私の疑問は次々と出てきたが、私はつっこんで大平と話すのはやめにした。
これには訳がある。私のみるところ、大平もまだまだ田中を信じているからだ。それもいい。だが要は大平が田中を消化し、田中を卒業できればいい。鈴木善幸のように盲目的に田中の信奉者であっては困るのだ。
8月21日、大平に会ったら、田中の動きをそのまま私に話してくれた。

「田中がこのところ何度も電話をかけてきて、近く椎名と会うつもりだが、会ってもよいか、とおれに聞くのだ。会えば椎名は『おれを推してくれ』というだろうな、と田中はおれにいってきた」「9月からの臨時国会は時間がかかる。年末までいってしまう。だが三木の手では絶対に解散はさせない」「福田は君(大平)に会って、総理にだけしてくれたら あとは全部、君にまかせると、そういってくるはずだ」「君はもう少しはっきりしてくれ、と田中はおれにそういった」
大平はこう説明してくれた。
田中は8月13日に大平と会い、ついで19日に椎名と会っている。私は大平の話の中からこれだけのことを知ることができた。
この電話の話によると、田中は椎名と会うことについて、事前に大平の了解を得ようとしていることが判る。しかもその時、どういう会談内容になるかまでを大平に洩らしている。これはおかしな話だ。
田中が椎名と会う。すると椎名が田中に「私を総理に推して下さい」と頼む。田中は「これを承諾するかもしれん」というのだ。明らかに田中はこう大平に話している。
だが果たしてそうだろうか。いやそうじゃあるまい。

田中がこんな回りくどいことなど椎名に言うはずはない。
「椎名君、君 総理になれ。おれは全面的に協力する」「おれの肚はこういうことだ。大平君 いいだろうな」「三木は今度の臨時国会で解散の挙に出るかもしれないが、これはやらせないよ。それどころか この国会で三木を総辞職に追いこむつもりだ。国会は紛糾して年末までゆくだろう。君の出す補正予算も倒閣の材料になるだろう。早々と出すな。三木が倒れた後は椎名暫定内閣だ。このことについて大平君 後から文句はいうなよ」
田中がいっているのは こういうことだ、と私には思えた。だが 私は大平には何もいわなかった。大平が田中の真意を自分の考えで判断できるようになればよいのだ。
このあと大平は私にいった。
「椎名に会えとおれにいう人がある。なぜおれは椎名と会わねばならないのだろうか」
私はこれに対し
「田中角栄が斡旋する、というのなら会うぐらいはいいでしょうね」
大平に椎名との会談を勧める者がいる、とすればそれは鈴木善幸に違いない。もしそうであれば、鈴木は間違いなく田中の代理人だ。私は大平がはっきり田中の、ある計画の中に組み込まれようとしているのを察知した。