説得工作が不可能と知った大平は、問題を宏池会の幹部会に諮り「増岡と行彦君の二人を走らせる。出馬中止の申し入れはやめる」ことに決定した。
三木内閣における大平の立場が悪くなる一方の時、広島二区の調整問題は長く大平の心に重荷となっていった。

5月24日に国会は会期を40日延長した。これで7月4日まで続くことになる。
総需要抑制政策は音もなく進行していた。ある大企業の幹部は「5％給料はカットされた。家計は毎月赤字だ」と私にこぼした。
「誰も何もいわないが不況なのだ」
気がついてみたら われわれは いつか、こういう経済環境の中に生きているという感じだった。
そんなうちに6月3日、佐藤栄作元総理が死去した。「時代の変わったことは、その人の死で判る」といった死に方だった。
6月20日、私が大平に会うと
「田中派の若手がおれをつきあげている。ハッキリしろ、活力がないじゃないか、一つ喧嘩したらどうだ、今のままなら福田に負けてしまう、というのだ」
といった。大平は味方からも四面楚歌の状態だった。

5月19日、主人は10時ごろ出かけました。自分が総裁をしている中小企業政治連盟の総務会と総会、それに夜、新喜楽で予定されていた長栄会に出席するためです。
出かける間ぎわ、私に
「今日は遅くなるよ」
と、たったひと言。これが八時間後に倒れ、永眠してしまった夫の最後の言葉でした。
夕方、美容院へ出かけ、帰って間もなくの6時半ごろ、秘書から
「(最後の佐藤派といわれた)粕谷茂先生から、急いで下さいというお電話です」
といわれ、電話に飛びつきますと、粕谷さんはあわてたご様子もなく
「奥様、先生が倒れたんです。すぐ来て下さい」
私が「顔は赤い？」とたずねますと「普通です」という答え。粕谷さんはつとめて冷静な声で、私を驚かさないように気遣って下さったのだと思います。
私は一瞬、脳貧血かな？と思いました。大事になろうとはゆめ思わず、軽い気持ちで新喜楽へかけつけたのでした。
主人は脳内出血ということで全くの意識不明。重大事態を知った私はショックで一時、自分の血圧が240まで上がってしまい、別室で休まなければならないほどでした。
主人の血圧は日ごろ、ほとんど正常で、いつも私の方が高めでした。

最近、血圧を調べたのは昨年12月、ノーベル平和賞受賞の旅に出る前と帰国後、それに3月27日の誕生日前で、それ以後、主人はカゼひとつひかず、健康状態があまりにいいものだから、つい、うっかりして調べていなかったのです。
主人と私は、長男の竜太郎夫妻と一緒に、九日後の5月28日から慈恵医大付属病院に入り、三日間の健康診断を受ける予定でベッドも予約していました。
主人は
「今度の人間ドック入りは竜太郎とお前の体をみてもらうのが主だよ。オレは大丈夫。自信があるんだが、まあ、お付き合いで入るか」
といった調子。
最近は自分の体より、むしろ私の健康の方を心配していたようです。私が夜遅くまで、人から頼まれたサインなどをしていますと
「お前、大丈夫か。やめエ、やめエ」
と、うるさく叱っていました。
それが皮肉にも、予約していたその病室1302号室に重体の主人が入り、そこで息を引きとる結果になってしまったのです。もし九日、いや十日早くドック入りしていたら……と、これだけは心残りです。竜太郎も
「まったく運命の九日間だったねえ、お母さん」
と、悔やんでいました。

主人はノーベル平和賞受賞以後、ことに世間のお役に立とうという意識が強まって、会合出席もふえ、国際的な政治犯救援運動をしているアムネスティの会員になるなど、頑張りが目につきました。ここで徹底的に体調を整えなければ、とドック入りを考えたのでしたが。

こんこんと眠り続ける主人を見守りながら、私は乱れ、ゆらぐ心の整理に懸命でした。
もし主人が意識を回復したら、まず何をいおうか、主人が「お前にも苦労かけるな」などと声をかけてきたらどうしようか……そんなことも考え続けました。
冲中先生や上田先生ら医師団からは「もし目をさましても、大声をかけたり騒いだり絶対にしないように」と厳重に注意されていました。ですから私は目をさました主人に一言「おそばにいますよ」とだけいってやろう、そう心に決め、その瞬間をいまか、いまかと待ったのですが、とうとう奇跡は起こらずじまいでした。
6月3日午前0時すぎ「ご臨終です」と医師にいわれ、まず私と竜太郎、信二が病床に寄り添いました。私は主人の左手を、竜太郎が右手を、そして信二が足をにぎり……私が主人の頭に手をやったのは、いよいよ最期の瞬間。

どういうわけか、それまで頭の方に近寄る勇気がもてませんでした。
主人は十四日間も意識不明のまま眠り続けたのですが、いかにも主人らしい死に方だと思っています。もしも倒れた直後、あるいは数時間で死んでしまったら、私はあきらめがつかなかったでしょう。ひょっとしたら精神錯乱状態におちいったかもしれません。
十四日間という主人の闘病時間は、私には一年間ぐらいの長いものに感じられました。主人は闘病の間、「寛子、あきらめてくれ、あきらめてくれ……」と絶えず私に語りかけているようでした。そして徐々に私にあきらめさせ、心の準備をする時間を与えてくれた、そんなふうに感じられるのです。
「このへんで死ねば、だいたい、寛子もあきらめてくれるだろう」
黙々栄作の最後の演技だったのでしょうか。この間、皆さんには大変なご迷惑、ご心配をかけ、ほんとに申し訳なく思っておりますが、妻の私としては「いい死に方をしてくれた」というのが実感です。
細川隆元さんは「佐藤さんは本懐をとげて、そのままスーッと蓮の花に乗って逝ったようなもんだ」とおっしゃっておられました。

私としては、一時は、植物人間になってもいい、とにかくそばにいてほしいと願ったのも事実です。が、いま静かに振り返って
「主人は最後の日まで会合で演説し、きちんとした身なりで死んでいったのだ。もう嘆いちゃいけない、それはぜいたくというものだ」
そう自分にいい聞かせております。
しかし野辺送りの4日、主人の遺体を納棺するときは、いくらあきらめた私でも、どうしようもない感情がこみあげてきました。
よく世間で、死に顔がよかったとか、わるかったとかいいますが、主人の顔は、うっすらと微笑をたたえたようで、ほんとに安らかでした。主人の政界入り以来、秘書をしている大津正さんが
「長年おそばにいましたが、先生のあんないい顔は見たことがない」
ともらしたほどです。
昏睡状態のときから、苦しい表情はひとつも見せませんでした。
「ノーベル平和賞受賞でノルウェーやソ連を旅した楽しい夢でも見てるんだろう」
と、病院で息子たちと話し合ったものです。

お棺には主人がヒマさえあれば楽しんでいたトランプ一組、ゴルフのボール一個、好きなまんじゅう、新しい何も書いてない日記帳、思い出の品々を入れてやりました。

日記帳を入れたのは「あの世でも日記を書き続けて下さい」ということです。日記帳は毎年、主人のために必要分以上にたくさん買い込んでおくことにしていました。日記帳がたくさんあれば、それだけ長く書き続け、長生きしてくれるだろうと思ったからです。
形見の遺髪を切るとき、主人が鉄道時代から知り合って今日まで家族のようにわが家に出入りしていた柳橋の芸者、力弥さんもそばにいました。私がふと昔を思い出し
「あなたも切りなさいよ」
とハサミを渡してあげると、力弥さんは号泣しながら、ふるえる手で主人の髪を切っていました。彼女は若いころの栄作が自慢にしていたコールマンひげを、ある宴会の席での座興から、あっという間に剃り落としてしまったひと。ひげを剃り、髪を切る因縁をなんと感じたことでしょうか。
主人の性格には非常にこまかい一面がありました。私がひとに差し上げるプレゼントを相談すると、いちいち話に乗ってくれるし、ひとからお酒を一升いただいたときでも報告させます。
ちょっとオノロケになりますが、結局、主人はやさしい夫だったと思うのです。夫婦げんかもしたし、私を殴ったこともあります。

悲しみを忘れるには、腹の立つことを思い出すのが一番と思うのですが、たとえば愛人をつくって外に子どもをつくったとか、そういう夫婦にとっての致命的なことはなかったと私は信じていますし、私が腹を立てようにも、立てる材料がきわめて少ない夫でした。変ないい方ですが、いま去られてみて、主人にその種の腹立ち材料があれば、私はむしろ悲しみから救われたのに……と複雑な心境です。
あるとき、ゴルフ場で長男の竜太郎にこういったそうです。
「おい、オレが死んだって、兄弟はお前と信二だけで、ほかに現れんから安心しろ」

あるとき、主人は私の妹の正子に、こんなことをいったそうです。
「寛子という女はなんにも知らんやつだ。経済がどうとか、株の配当とか、そういうことは、いくら教えてもわからん」
世間の方々は、私が何でも切り回しているように見るむきもあるようですが、結局は主人に頼り、大木にすがっていたようなものです。その木が倒れたいま、これからだれに相談をもちかけ、知恵を借りればいいのか、途方に暮れているというのが正直なところです。
現実問題として、私にはこれからやらなければならないことがたくさんあります。

選挙区や秘書の方々の今後のこと、家庭内の整理……この家にあと一年は住んで身辺整理にがんばらなければ、と思っております。
私はかつて
「主人という人は一身上の大きなことも私には話さない男です。私はまた反対にどんな小さなことでもいちいち主人に相談してきたのです」
と書きましたが、ついに主人は自分の生命に関する大事なことも私にはいわないで去ってしまいました。黙々栄作に徹しきった最期でした。
病院で主人の死に直面した私は思わず
「私の人生も、これで終わったのよ」
と、つぶやいてしまいました。弔問に来られていた友人の高峰秀子さんがたしなめるように、こう励まして下さいました。
「なにをおっしゃるのよ。あなたには息子さんが二人もいるじゃないの。しっかりしてよ！」

「栄作は馬鹿じゃったのう。お前があれだけ熱心に健康管理をやっていたのに、その目を逃れて、甘いものや、ご馳走を食べすぎて死んでしまった……」
あるとき義兄の岸信介が悲しみのあまり、こう私にもらしたことがございます。いまにして思えば、どんなに叱られ殴られようとも、私は主人に、もっと強く、厳しく干渉すべきだった、と悔やまれてなりません。

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北海道民は殆どが左翼だからインタビューで答える高齢者は安倍総理を辞めさせたいらしいぞ？