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という観測のものがほとんどであった。党内は主流、反主流ともに緊張と興奮の中にこの朝を迎えた。
「今朝、早い時間……7時過ぎだったろうかね。三木首相から僕のところに電話があった」
そう切り出したのは船田中であった。この言葉に その場に集まっていた15人の閣僚たちは鋭敏な反応をみせた。福田、大平派はじめ皆 反主流派であった。田中派の金丸信国土庁長官、竹下登建設相、小沢辰男環境庁長官。大平派の宮沢喜一外相、佐々木義武科技庁長官。福田派の安倍晋太郎農相、田中正巳厚相。船田派の福田一自治相たちである。それに福田派幹部の有田喜一、渡海元三郎が加わっていた。
8月24日午前9時、国会議事堂にある自民党総裁室である。この会合は福田と大平とが前夜招集をかけておいたものである。
ー閣議、議員総会、三者会談。
この三段構えの戦術によって 三木首相を退陣に追い詰めていく陣固めが目的だ。その上で午前10時から首相官邸で開かれる閣議に乗り込もうというのであった。
ー三木は一体、船田に電話で何をいってきたのか?
皆の表情に興味を示す色が漂うのを 船田は満足気に眺めながら、やや勿体ぶった調子でいった。
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「三木君は僕にだね、君は議会人として四十年来の友人じゃないか。色々と事情は解っているはずだ。沈着冷静に頼むよ。手荒なことはしないでもらいたい……そういってきた」
そこにいた半数以上の閣僚が笑い声をあげた。
ー三木もいよいよ われわれに追い詰められて、音を上げ始めてきたか。
自分たちの攻勢によって窮地に立った三木首相の狼狽と困惑を想像しての笑いであった。それに
ーもうひと押しで三木を退陣に追い込める。
そのような自信をこめての笑いでもあった。ざわめきが収まったところで 船田は福田に向かって促した。
「昨日の福田、大平両相と三木首相との会談の経過をご説明願いたい」
福田は余裕のある鷹揚な態度で 前日の会談の説明に入った。その福田の面には、ある閣僚が
「最近、福田君は額のしわに突っかえ棒をして、張りをもたせているように見えるな」と評したような、そんな張りがあった。間もなく天下を取れるー という気概がもたらしたものである。
「いずれにしても 本日がヤマであると信じている」
福田は上を睨み据えるような眼つきで、そのように話を結んだ。説明を終わったところで 隣席の大平にその視線を止めた。
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今度は大平が ぽつりぽつりと言葉を切るように 福田の話に補足の説明を加えた。大平は
ー僕は福田君の女房役だ。
そんな印象を与えるような態度だった。
10時から始まる閣議まで 時間はあまりなかった。船田が
「ヤマ場である本日の作戦……挙党協としての方針を もう一度ご確認を願いたい。これからの閣議の席で、もし三木首相が 8月末あるいは9月早々、臨時国会を召集したいと提案をした際、反対を願いたい。われわれとしては あくまで臨時国会の開会前に三木首相が退陣することを要求する、という原則に立っている。また今日午後2時から開かれる両院議員総会は全員出席していただく。そこで仮に三木総裁の不信任、あるいは解任決議案が提出された場合には、それにご賛同を得たい」
船田派に属していて 閣僚の中では三木おろしのトップに立っている福田一自治相が発言した。
「議員総会でそこまで運ぶのは最悪の時で、まず総会では三木退陣の気勢をあげ、福田、大平両相がそれを負って三木総理に退陣を求めることが本筋だ。三木との話し合いで決着をつけるのが理想と思う。お二方……」と福田、大平を見やった。
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「議員総会の後の三者会談……しっかり頼みますよ」
福田、大平ともにうなずいてみせた。
さすがにこの席では 三木首相が臨時国会召集を提案した場合に、これに反対して辞表を提出することについては誰一人 口にしなかった。それは閣僚としては表向きいうべきことではなかったと同時に、仮に口に出さないとしても お互いに暗黙の諒解ができていたからでもある。また誰もが
ーそのような手荒なことをする以前に、三木は辞意を表明するだろう。
と自信に充ちた観測を抱いていたからだ。そんな中で旧石井派の長谷川峻労相が
「議員総会に賛成しなかった閣僚、ここに出席していない閣僚にも、一応この席の話だけはしておくべきではあるまいか」といった。
ーそうしないと閣内で全面対決という形になる。これは好ましくない。
という配慮からであった。だが こうした雰囲気の中では大部分の閣僚は
ーそのような手続き的なことは問題にすべきことでもあるまい。
誰も取り上げようとはしなかった。この会合は30分ほどで終わった。ロビーには記者団が密集していた。
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「今日こそが三木おろしのヤマ場」という雰囲気だけに、そのクライマックスへの布石といえるこの反主流派15閣僚の会合の結果を、記者たちも殺気だった様子で待っていたのだ。一人の記者が宮沢外相をつかまえて
「皆さん辞表を用意しましたか」
と性急な質問をした。小柄な宮沢は その温厚な顔に いつものスマイルを浮かべながら首を振った。
「閣僚辞任というような話は一切出ませんでしたよ。さすがご両人 (福田、大平) とも心得ていますな」
宮沢は大平派に属している。だが自らの派閥を超えて有志たちを集め、平河会を作り 将来の総裁を目する姿勢である。今この種の党内紛争に引きずり込まれ、かかわりを持たされることに抵抗を感じていた。三木が臨時国会召集を閣議のテーブルに載せた時、辞表を出すべきかどうか、まだ意を決しかねていた。その辞表問題が この会合で議題に上らなかったことは、彼にとって救いでもあった。宮沢はその日の午後の議員総会にも、秘書に名刺を持たせただけで自らは出席しなかった。外相として 北方領土問題で北海道に飛ぶ用件があったからだ……。
この8月24日は午後からは酷暑になった。
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午前9時過ぎ、三木が私邸を出て玄関先で車に乗り込む時、三木番の記者たちが たちまちの間にまわりを取り囲んで
「どういう見通しです?」
と口々に喚くように問いかけた。三木は苦い表情で重々しく答えた。
「僕が辞めなければならん名分は何一つないよ。辞めては国民への責任が果たせない。それだけだ」
そういい捨てて車に乗り込んだ。
三木の車が首相官邸に到着する前に、首相官邸記者クラブでは井出官房長官が定例の会見を行っていた。そこで記者団の質問は、閣議に先んじて行われた反主流派閣僚の会合に集中した。日ごろ温厚篤実な井出にしては珍しく不機嫌をありありと表しながら
「あのような会合はノーマルではありませんな」
と非難の言葉を口にした。その井出に記者団は底意地の悪い質問を放った。
「といっても反主流派閣僚が閣議前に異例の会合を開いた。しかも臨時国会反対というのでは閣内不統一であることは確かだ。これは首相の責任ではありませんか」
井出は一層憮然とした面持ちになった。
「そういう責任も考えておかなければいけませんな。総理としても無関心でいるわけにはいかんでしょう」
そういって井出は閣議出席のため腰を上げた。
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閣議室には定刻の5分前に福田が姿を見せ、続いて大平をはじめ反主流派閣僚たちが顔をそろえた。福田の面には
ーすべて ことは作戦通りに運んでいる。
という満悦感があった。手で膝を軽く叩くいつもの癖を、いま急調子でくり返しているのが その気持ちを表していた。
中曽根派の稲葉法相が あたふたと入ってきて 席に腰を下ろしながら
「まるで白蠟病だよ」
と 大きな声で冗談めいた口をきいた。内閣の内側から政権を崩していくという意味で、稲葉は反主流派閣僚を当てこすっていったのだが、誰一人、稲葉の台詞に応ずる者はいなかった。
三木首相が入ってきたのは定刻きっかりの10時であった。円卓に定められた総理大臣の椅子につくと、隣の福田副総理にそっとささやいた。
「今日 夕方にでも三者会談をやる予定だったが、君の方はその先とか後とかに議員総会を開いて、何か物騒な決議をするらしいね。驚いたよ。僕はそんなつもりで三者会談をするんではない」
三木の口調は いつもと変わらないスローなテンポであった。それがゼスチャーなのか、肚がすわっていて日ごろの語調そのままなのか、福田には読めなかった。
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福田は腕を組んだまま顔だけ三木の方にわずかに寄せて
「議員総会で何をするか、別に決まっとるわけじゃない。ことと次第でね」
と小声で答えた。その肚の中では
ーこの閣議で、あんたが臨時国会召集の件を提案したら、一気に反対して勝負するまでだ。
という思いを はっきりと固めていた。
しかし三木は、既にこの閣議に先立って 井出官房長官、海部官房副長官あるいは河本通産相たち三木派幹部、中曽根幹事長と図って
ー今日の閣議では臨時国会の件は提起しない。
という方針を決めていた。それは三者会談あるいは議員総会を後に控えたこの閣議で、臨時国会召集の件を持ち出して主流、反主流派閣僚の対立を決定的にさせることはまずい、という判断からであった。紛糾と混乱を今日はとりあえず回避しておこうという配慮からであった。閣議には行政管理庁の定員削減計画を議題にのせただけであった。それも松沢雄蔵行管庁長官 (椎名派) の簡単な説明の後、若干の意見の交換を行った程度で、後はハイジャック問題などの雑談に移って20分ほどで終了した。
「これで閉会を致します」
という井出の締め括りの言葉とともに 三木首相は真っ先に席を立った。
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続いて他の閣僚も腰を浮かし始めた時、まだ席に深々と腰を下ろしたままの福田が昂然と胸を張って発言した。
「午後の両院議員総会に署名されなかった方に、議員総会の件と今朝の15閣僚の会合の件とを報告しておきたい」
既にドアを出かかっていた三木が、福田の言葉にくるりと後ろを振り向いた。
「それなら僕も聞いておかなゃならんかな」
三木はそういいながら福田を真っ直ぐに見た。
福田は慌てた。いかにも冗談めかして
「総理にはご遠慮願いたい。あんたがいては話ができなくなる」
と作り笑いで答えた。三木が何もいわずに部屋を出た後、坂田道太防衛庁長官 (無派閥) が福田に向かって言った。
「私は三軍の長である総理から任命された防衛庁長官だ。このポストにある者が政争に関与することは、自衛隊員に好ましい影響を与えない。私も失敬する」
これには福田も大平も一瞬 表情を硬くした。だが坂田のいうところは理屈である。福田も大平も敢えて止めようとはしなかった。続いて党籍、議席のない永井道雄文相も席を立った。後に残ったのは福田、大平と、主流派の稲葉法相、河本通産相、井出官房長官の三閣僚、それに海部副長官の六人だけになった。
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福田は今朝の15閣僚の会合の模様と、午後の両院議員総会までの経過、趣意を話した。乾いた表情で聞いていた河本通産相が、この人の性癖で ずばりとこういった。
「……要するに三木おろし……ですな。として その大義名分は一体 何ですか。解せませんな」
福田はその河本を見すえた。
「第一に連帯責任……田中角栄、橋本登美三郎両氏が逮捕されたが、彼らだけが悪く 自分だけがいいということでは済まされない。自民党全体の責任として受けとめ、総理総裁が辞任する……ということだ」
河本はめったに表情を変えない。この時も眉一つ動かさずに福田と大平を見やりながら切り返した。
「総理総裁が辞めただけで党全体の責任が済まされますか。むしろそれならば臨時国会を召集し、解散、総選挙に訴えて世論に問うのでなければならない」
「解散されては党内の責任が不明確になる。われわれにいわせれば解散、総選挙の大義名分こそわからない」
「解散、総選挙は もちろんロッキード事件の総決算……これが大義名分だ。それ以外にはないでしょう」
「それに第二には……だな」
福田は しいて河本の視線を逸らしながら話を移した。
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