583
「臨時国会を開いて財特法その他を成立させたいと三木総理はおっしゃるが、たとえ臨時国会を開いても現体制では参議院を通過させるのは難しい。そこで三木内閣としてはデッドロックに直面してしまう」
これは三木が臨時国会の開会を強行しても、反主流派が参議院で非協力の姿勢をとれば法案は何一つ成立しないー という意味だった。ある種の福田の威嚇でもあった。
稲葉法相が口を尖らせていった。
「ということは田中派が欠席するということかな」
これは稲葉一流の皮肉を込めたいい回しで
ーまさかお前さん方両派は、そんな不見識なことはしまい。
という厭味を込めての発言であった。稲葉はさらに手厳しい皮肉を放った。
「まあ それはそれとして、三木内閣がだね、あんた方二人、どちらか知らんが 誰の内閣に替わっても同じことだ。参議院ではかえって欠席が多くなりゃせんか。三法案は一層通らなくなる」
福田、大平が三木政権を潰せば、その後が福田内閣、大平内閣いずれであろうと、その時は三木、中曽根派が参議院で造反するー という福田への報復発言であった。稲葉は唇から泡を飛ばすような早口で
「田中逮捕以後、急激に党内情勢が変化した。
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法相としては全く遺憾に耐えんことだ」
と吐き棄てるようにいった。なおも何かいおうとする稲葉を制するかのように、河本が口を挟んだ。
「副総理は三木体制では三法案は成立しないとおっしゃるが、福田、大平両派さえ協力すれば、財特法など三法は通るはずだ。だからそのように三木総理も、あなた方に協力を要請している。ところが三木総理が辞めなければ財特法などは通さないといわれる。反主流派の行き方は どうにも納得を致しかねる」
稲葉がまた口を出した。
「全くその通りだよ。三木体制では法案が通らんというが、それは福田、大平両派が、われわれが協力せんから通らないといっておるだけの話ではないか。福田、大平両氏が皆を説得すれば通ることだ。それができないというなら、あんた方二人こそ派内を統一する力がないということになる。あんた方は三木総理には統治能力がないなどというが、あなた方お二人にも それがあるかどうかは疑問だ」
この稲葉の言葉に福田は憤然とした。大平は表情を変えないまま、ぼそぼそとしゃべった。
「まあまあ、興奮しないで聞いていただきたい。
585
われわれが考えておることは、いわゆる三木おろし……ということではない。党内の情況をよく見極めて、上の方 (首相) で自発的に判断してもらいたいということだ。また上の方が自発的に判断しなければならない時期に来た、ということをいっておるんで、別に力ずくで引退を迫る、倒閣をするというようなことではない」
「どっちみち、結論は同じことさ」
稲葉は捨て台詞を吐いて立ち上がった。それをしおに、この会議はお互いの挨拶もなく終わった。
このあと井出、河本、海部三人は閣議室と隣り合わせた総理大臣室に入った。三木は三人の顔を見るなり
「福田、大平君の話……どんな具合だったかね」と訊いた。
「例によって同じことのくり返しでしたな」
井出はそういったものの、悪化していく事態にその表情は憂慮に歪んでいた。
「このあと議員総会、三者会談ー どのように対処しますか」
三木は渋面をこしらえながらも
「まあ、議員総会なるものの経過をみるさ。それによって三者会談を考えたらいい。もう福田、大平君と会う必要もなくなるかも知れんからねえ」
「ということは、まさか向こうの軍門に下るということではありますまいね。
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私たちは最後まで闘うつもりでおりますよ」
と 河本が三木に詰め寄るようにいった。
「僕だって そうだよ」
三木はけろりとした表情に変わっていた。すでにして三木は、その内在する政略家としての本領を発揮し始めていたのである。
かつて三木は、終戦後の数年、政界やジャーナリズムの間で「バルカン政治家」と評されていた。それは わずか30名前後の国民協同党を率いながら、片山哲、芦田均二代にわたる社会、民主党内閣の連立に参加し、大政党である社会、民主党の勢力のバランスの間を巧みに泳いできたことに由来している。
このとき議会人としての閲歴からいえば、三木は芦田よりも一期遅れての当選であったが、片山に較べれば数年は先輩であった。としても年齢的にいうならば、芦田、片山は60歳を超えていた。三木はまだ40半ばにも達しない若さであった。若年と小党のハンデキャップがありながら、ことあるごとに芦田、片山相手の三党首会談を開き、巧みに二人に伍してきた。この点で ある時には「若年寄」というニックネームが三木に与えられた。
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23年の秋に昭電事件を契機として、片山・芦田の社会・民主・国協三党連立が潰え、吉田茂の自由党時代が訪れるとー 三木は国協党を率いて民主党野党派と合同し、国民民主党を結成した。民主党野党派の苫米地義三委員長がそのまま委員長のポストにつき、三木は幹事長の椅子についた。
さらに追放解除の後、この国民民主党に解除組の大麻唯男、松村謙三たち旧民政党系がなだれこんできた。この結果として重光葵を総裁とする改進党が誕生をみたが、三木は依然、幹事長のポストを死守した。この改進党においては、三木は主として戦後派の若手である旧国協党の人々や、あるいは民主党の中堅若手と組み、解除組に対抗した。
解除組は寝業師といわれた大麻が中心であった。老獪な大麻を相手に、三木は一歩も退けをとらずに着々と三木派を固めた。その中に井出や河本、あるいはまた後に福田派に走った早川崇などがいた。解除組の中でも松村、松浦周太郎といったニューライト的な人たちは三木派に与した。
三木のある種のマキャベリズが 余すところなく発揮されたのは、この時期までであった。
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それ以後の三木は吉田自由党政権に対して
ー新しい保守勢力の結集。
という正眼の構えをとることになった。三木が後に鳩山一郎たちと組んで日本民主党を結成するに至ったのも、あくまでこの筋にのっとっての行動であった。
三木はまた、この鳩山民主党と、吉田の後を継いだ緒方竹虎の自由党とが合同をする際にも
ー保守党は二つあるべきだ。一つはオールドライト的なものであり、一つはニューライト的なものである。そのニューライトの保守を担うのは自分である。
という理念、信条に基づいて、単一保守党ー 今日の自由民主党の結成に最後まで抵抗した経緯がある。
この時代には三木武夫は、鳩山の参謀である三木武吉あるいは側近である河野一郎たちから
「三木武夫という男は理屈っぽくてかなわん」
と毛嫌いされたものである。また口の悪い河野などは
「三木武夫が保守合同に反対するのは、最後まで反対をしながら、ごね得を考えているのではないか」
と あからさまに非難もした。三木は
「こういう際はごねて得をするものではない。ただ筋を通すだけだ。筋を通すことによって損をしたとしても、やむを得ないことは覚悟している」
と側近に洩らしたものである。
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それ以来、三木はかつてのバルカン政治家という名前を返上した。ことに自民党が佐藤栄作政権に移行してからは、総裁公選に臨んで二度 佐藤に挑戦した。いずれの場合も
ーもともと勝負は負けとわかっている。だが新しい保守理論の筋を通すために、あえて出馬するのだ。
という姿勢をとった。
こうしたことから三木の政治家としての素質の中に内在している政略の才が、表面から消え去り、政界の多くはそれを見落とすようになった。まして三木派は常に自民党の傍流、あるいは小派閥として党の片隅に追いやられる状態に置かれ続けてきた。そのために
ー力のない三木武夫。
各派閥の領袖たち、わけても保守本流をもって任ずる福田派や大平派の官僚出身者は、三木という人物を そのようにタカを括って見ていたのだ。
だが三木の胸中に ふつふつと滾るものは
ー党人出身の自分こそが保守政治の本流である。
ー自民党を新しくするためには自分が本流としての地歩を占めなければならない。
という信条であった。と同時に
ーいざという場合には党分裂をかけても闘う。
という強靭な意志であった。
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今度の三木おろしに直面した三木は
ーこの勝負は党人と官僚の勝負。あるいは戦後十年近い時間をかけて自分が闘ってきた吉田茂、吉田学校との対決かも知れない。
そんな意識に駆られた。
こういう場面に臨めば多くの政治家は感情を激発させ、闘志をあらわにして言動する。吉田もそうであれば、池田勇人も佐藤栄作もそうであった。しかし三木はそうではない。
若い時代に若年寄といわれたほどの奇妙な沈着さがあった。それに粘着力がある。しなしなとしないながらも折れることのない弾力がある。あくまで柔軟な姿勢で事に処した。その内側でバルカン政治家と謳われた政略の才を、密かに徐に用い始めていたのである。
その一つが、今日24日の閣議に臨時国会召集の件を持ち出さなかったことであった。それは手ぐすね引いていた反主流派15閣僚に肩すかしを食わせるものであった。
ー反主流派の気勢を殺いで時間を稼ぐ。先方の気分にたるみが生ずる。そのように仕向けていく。
三木はそうした意図を井出、河本、海部には見せずに
「今日は福田、大平君との三者会談はやめようと思っている」
といった。ぼそぼそと冴えない、いつもの口調であった。
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「向こうが いきり立ちはしませんか?」
心配げにそういったのは海部である。三木の計算は逆であった。三木はこう答えた。
「反主流派が興奮して議員総会でわあわあやっとるような最中、話し合ってみたところで どうにもならんだろうからね」
だが三木のその言葉の裏には遠謀があった。
ー自分が三者会談を開かない……といえば反主流派はどう出るか。興奮と憤怒にまかせて議員総会で総裁不信任、解任決議案を採決するか。バカぞろいなら そうするだろう。だが保利のような知恵者がいる。そうしたら三木は党を割るぞと読んで そうはしまい。あくまで三者会談に賭けてこよう。
ーだから自分が三者会談を開かないといえば福田、大平は慌てる。慌てさせるだけ こちらに利がある。
というのが それであった。
「今日は三者会談はやらんことにしようや」
と三木はくり返した。このことが井出、河本、海部たちの記者会見を通じて、反主流派に流れていくことを計算しての くり返しの台詞であった。
すでに各派は、今日で三木おろしの決着をつける方向へと活発に動いていた。福田派、大平派とも それぞれ事務所で幹部会を開き、田中派は臨時総会を招集。
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「午後の両院議員総会には 87名のうち85名が出席する」ことを確認した。
中間派のうち椎名派では、やはり午前中に総会を開き
「政局に対しては人心一新 (三木退陣) の姿勢で臨む」
「椎名派議員19名のうち、病気療養中の岩本政一 (参) 、所用で東京を不在にしている赤城宗徳 (衆) 両氏を除いて17名が出席する」ことを申し合わせた。
反主流をとりまとめての挙党体制確立協議会は、この朝9時半から第二議員会館で幹事会を開いていた。三木退陣へのスケジュールが話し合われた。
ー午後2時、衆議院別館ホールで開会し、上原正吉両院議員総会長が挨拶を行う。
ー上原会長が党所属議員の三分の二の出席を確認した上、この両院議員総会が党大会に代わり得る旨を宣言する。
ー三原朝雄氏が経過報告、船田中氏が基調演説を行い、一旦休憩し、三木・福田・大平三者会談の結果を待つ。
ー三者会談で三木辞任の結論が出ない場合は、7時半ごろ議員総会を再開し、新体制の確立を強調する。三木総裁不信任あるいは解任決議案を提出し、これを採択する。
というものであった。
「一寸、待った」と それまで黙り込んでいた保利が発言した。
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